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(続)切れるって?

 僕らの世代では、「切れる」と言ったら普通は「頭の回転が速い」ことを言いましたよね?「切れ者」という言葉があるくらいですから・・・・。

 日本のミュージシャンの世界では、理性が働いて感性が押さえられている状態から、演奏が興に乗ってくると「吹っ切れて」急激に一段高い別人のような演奏状態になることを、結構古くから「切れる」と言ったりはしていたようです。ただしこれは、いわゆる、業界用語とか隠語とか言われる使われ方です。

 これもどちらかと言うとマイナスイメージよりも、むしろ良い演奏状態を指していましたが、最近の若者たちが普通に使う「切れる」は、確かに同じように理性が感情を押さえられない状態を指してはいますが、どういう訳か何時の間にか意味が変わり、「堪忍袋の緒が切れて、怒り狂う状態」を指して使い始めました。これをまたバカなマスコミ連中が流行らせ、今では一般に使われ出したようです。・・・(あはは、オジンの僻みって言われそうだ)

 それはさておき、僕はできるだけ若い時期にいわゆる修身教育を受けることが必要だと思っています。今の日本には、戦前の様々な間違った抑圧への反省から、「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」の風潮が強く、良かろうと必要であろうと、「戦前に行なわれたものは全て悪である」と言った極端な考えに固執している人間が、悲しいかな非常に多いように感じます。

 これがまた教育者やマスコミ関係者に多く、それがまた新興宗教かオカルト教団のように、問答無用で狂信的な輩も少なくなく、「道徳教育の必要性」などを解こうものなら「戦前の教育の復活」とばかりに大騒ぎする始末です。「言論の自由」とか「報道・表現の自由」とかも被害妄想的に騒がれるのも辟易とします。

 まあ、ある意味では、それほど戦前の教育や政治による犠牲者が多く、それだけに拒否反応が強いと言うことだけは否定できません。

 しかし、だからと言って無秩序であっていい筈はありません。何事もそのもの自体の良し悪しよりも、それを解釈し運用する人間の側に問題があるに過ぎないのですから。

 それが何であれ、戦後の日本人は半世紀近くも特定の宗教的な規範も無ければ、道徳的規範も持ち得ないで過ごしてきてしまったのです。それでも今まで何とかやって来れたのは、たまたま経済復興という共通の目標と、その実現が人間の基本的欲求本能を満たし続けてきたことから、不平不満がその影に覆い隠されて来ただけなのでしょう。

 そう言った意味から、少なくとも日本人にとっては今こそ修身教育が絶対に必要だと思うんです。物質文明が加速度的に進み、その方向が単なる道具の開発から思考領域に踏み込んで来つつある時代です。こんな時代だからこそ心を磨き、鍛え、本質を見失わない思考の方向性を保つことが必要ですし、そのためには善悪の規範となる道徳や修身の教育が絶対に必要ではないでしょうか?

。。と、チョッと過激発言の純一郎でした。・・・その前に教師の質の向上の方が問題かも・・・・

                                          By 純一郎
by m_tanijyun | 2004-07-10 13:39
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