ものごとの狭間・境界?[3]

 さてさて、大分ご無沙汰いたしております^^ww

 ん?もう辞めたんじゃないのか!。。。ですか?うぅぅぅぅぅ。。。
 そう言えばこれが今年初めての独り言になっちゃいましたね。とほほほ。
 (って、最後の投稿から早くも半年も経過しちゃった^^);;

 ま、何時もの気まぐれで、ここへの投稿を本格的に再開した訳ではありませんので、この次何時書くかは自分でも分りません。 実は先日、ここをあまり放置していたので、MSNの管理人から「閉鎖の勧告」が来ちゃいました。・・・・と言う訳で、慌ててここに舞い戻ってきたと言うのが、恥ずかしながら事の真相なんです。すみません。

 何時でしたか「物事の狭間?」という独り言を書きましたが、今回は「是非の境界」について考えてみることにします。
 
 この課題は、あらゆるものごとの考え方の底流にあり、価値基準や判断基準を規定するものでありますから、その捉え方や対処の仕方が、それこそ、その人の人格そのものを決めたり、生き様を左右したり、仕事の処理能力や方向性を決定付けたりしていると言っても良いと思います。 そういう意味では、このテーマは実に興味深く、僕にとっては永遠のテーマになっているといっても過言では無いのです。
 
 実際、考えてみれば世の中に「是非の境界」くらい難しい問題は無いのではないでしょうか?
 
 もちろん、「善悪」や「是か非」といえば、「白と黒」のように全く相反する概念であり、これが混同される筈は無いと言うのが理屈ですが、現実はご承知のとおり、その境界は全く以って不明確であり、それが故、何事にも自信を持って境界が引けないという人が多いのには驚かされます。

 確かに、1と100では、明らかに違うと考える人が多いでしょう。しかし、1と2はかなり近く、ほぼ同一と見なせる。2と3も同じように近似値として同一と見なせるから、1と3も同一と見てよいだろうと言う理屈も成り立ちます。しかし、このように後者の論理を展開すると、終いには1も100も近似値と言う話になりかねません。

 これと同じように、「是か非」も、両者の差が明確であれば、誰でもこれを容易に区別できるはずですが、実際はこの両者は決して不連続な事象ではなく、その間には無数の中間的な事象が存在し、それらは必ずしも明確に区別し難いケースが多いのです。こうした論議を進めると、本来明確であった「是非の境界」が、途端に不明確になったりすることも良く見られることです。

 ちょっと次元は違いますが、少年法の適用ではありませんが、どこかに線引きをしようとすると、何歳から大人で何歳までは子供なのか?それを一度14歳と決めた時、同じ1歳の違いでも、14と15の違いと13と14の違いでは、法的責任の差があまりにも大き過ぎると言った論議が必ず出てきます。
 
 このように、善悪や是非のように、相い対する概念を持つ物事の狭間には、実は無数の中間的物事が存在し得る訳ですが、それを一体どうやって明確に線引きし、自分の考えを決めたらよいのでしょう?

 それが今回の独り言のテーマと言う訳です。・・・・・・ん?それで、その結論は?・・・・ですか?

 え~~と。。。。別に何も用意していません。あははは。

 でも、日常、私たちはものごとを考え、その結果得られた何らかの判断の元に、行動(生活)しています。・・・・と言うことは、私たちは無意識の内に、それも瞬時に、この難しい「是非の境界線の線引き」をしていることは間違いありません。

 まあ、試験でも受けてるとか、勉強のために本を読んでいるとか研究でもしてるならいざ知らず、日常の思考は、それまでの経験や、教育や躾けなどで形成された価値観や価値基準を元に為されていますので、こうした瞬時の判断をしたとしても、これもまた当然と言えるのかも知れませんね

 いずれにしましても、このテーマには、当然の事ながらたった一つの或いは単純明快な正解がある筈もありません。
 しかしながら、このことに如何なる線引きが出来るか?どれだけ自分なりの明快な考え方や判断基準を持ち得るか?そういったことが、自分自身の考え方や物事の価値基準や判断基準を左右し、ひいては自身の人間性や人生観、仕事の方向性や対処法にまで影響を与えることは疑いの無い事実です。今後も機会があるごとに、このテーマについて独り言を書いてゆきたいと思います。

                                         By 純一郎
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by m_tanijyun | 2005-08-01 17:31
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