成熟化社会のルールの在り方って?

 はてさて・・・前回ここへの記事を投稿してからもう半年経過して、年も改まって2006年になってしまいました。。。。とほほほ。
 
 あれから更に何度かMSN管理人から閉鎖勧告の通知を受けながらも何とか継続させてもらっています。 ほんとはこの「独り言」もどこかに移転するなどして、一度整理しなおした方が良いと思っていますし、また新たなテーマで書きたいことも沢山あるのですが、どうもこのところ精神的なゆとりが無くてなかなかその気になれません
 ・・・・・・って、サボっていることの単なる言い訳ですがあははは

 斯く言う今も、管理人さんからの閉鎖勧告に促されて仕方なくこの記事を書いているという始末です。。。。。。。

 閑話休題:

 さてさて、最近僕が気になっていることなのですが、それは「成熟化社会のルールの在り方」という問題です。この課題については広範な議論を待たねばなりませんので、今後時間をかけていろいろな角度・視点から考察してみたいと思っています。

 今日はそのほんの触りとしてお話しますと、ここで言う「ルール」とは、法治国家におけるいわゆる法律と呼ばれるものから、一般生活における常識的な約束事・規則といったものまで含めた広い意味での社会ルール全般を指しています。

 これらはその発生的根源といいますか成立過程に於いては、その社会の構成要員である人々の、いわば「幸福追求権」のようなものを、如何にして公平に保ち得るか?ということを念頭に於いて築かれたものではないでしょうか?したがいまして、そこには明らかに弱者救済といいますか、ルール違反者を戒め、被害者を擁護する精神が根底にあったはずです。

 このことは、人間が社会的動物である以上、必要不可欠なものであり、歴史的にもその成立と施行は必然的なものであったと言って良く、少なくともこれまでの社会においては一定の成果を収め、今日があると考えて良いでしょう。

 しかしながら今日では、その弊害が成果を上回るどころか、敢えて言えば「ルールを逆手にとって立法趣旨を踏みにじる行為」がまかり通り、謂わば「確信犯的犯罪」が横行しているのが実態です。

 これは決してルールそのものが悪いのでもなく、これまでの運用方法にもそれなりの必然性や成果もあったのですから評価すべきだと思いますが、その歴史そのものが多くの判例や既成事実という経験則を生み出し、こんどはそれが逆に、ルールの運用や解釈に一定の制約を設けてしまっただけでなく、犯罪者側に違法性の限界を示したり、免罪符を与えることになってしまっているのです。

 広く言えば、国際社会における核問題にしても、環境汚染問題にしても、国内におけるライブドア問題や耐震強度偽装問題も、少年法犯罪に於いてさえ、そのどれもが、どこまでが合法的かどこから先になると違法性があるのか、それらを熟知した上で起きている問題のような気がします。

 う~~~ん、こいつは根が深いのでまったく困ったものです・・・・ってことで、続きはまた

                    
                                         By 純一郎
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by m_tanijyun | 2006-03-18 17:37
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