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昔の遊び

 これらの絵は、昔、僕らが子供の頃に良く遊んだ「遊び」です。

 パラパラ漫画を書くフリーソフトで書いてみました。他にも、私の創作GIFアニメ・ギャラリーに少しあります。良かったらご覧ください。w

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左上から、「缶蹴り」「長馬」「影踏み」です。ご存知の遊びがあるでしょうか?

 社会の変化は著しく、何もかもがすっかり様変わりしてしまいましたので、失われてしまったものが沢山あります。童謡や小学校唱歌など、私としては残して欲しいなぁ・・と思うものも多いのですが・・。現代生活との違いが大き過ぎて残したくても、子供達の理解を得るのが難しいのかも知れません。

 これらの遊びは、家の近くの路地裏や空き地に、近所の子供達が集まっては行われていました。大抵は年長のお兄ちゃんたちが遊びを仕切ってくれて、小さい弟、妹達を遊びに入れてくれていました。そこにはとても良い子供のコミュニティーがあったような気がします。

 学校でも、昼休みに様々な遊びがありましたが、それらも皆、今では失われたものばかりなのでしょうねぇ~。私たちの世代にも、危ないからと言って、どんどん禁止になってしまいましたが・・・思い出すだけでも、剣玉やメンコ、コマ回し、馬跳び、馬乗り、切り馬、キックベース、手打ち野球、ドッヂボール、島エス、水雷と艦長、などなど。いっぱいあります。(遊びの名前は地方や年代により違うようですが・・)

 ご存知無い方が多いと思いますので、ここにアニメで紹介した「長馬」という遊びについてチョッとご紹介しましょう。僕らの子供の頃に大変流行った遊びの一つです。

 先ずジャンケンで、子供達は攻撃側と防御側の二チームに分かれます。防御側は、絵のように一人の子が木や壁を背にして立ちます。その他の子は、ラグビーのスクラムのように頭を下げて、前の子の股に頭を入れ、その子の足をしっかり掴んで、一列の長い馬を作ります。

 攻撃側の子は、出来上がった長い馬から離れた場所に集まり、そこから一人一人順番に走って来て、馬の上に飛び乗ります。

 防御側は、攻撃側の子が全員乗り終わるまで、馬をつぶさないようにしなければなりません。反対に、攻撃側は、全員が落ちずに馬に乗り終えなければなりません。攻撃側の子が全員馬に乗り終わると、最後に乗った子と、馬の前に立っている子がジャンケンをして、攻撃の続行か交代かを決めるという遊びです。

 この遊びの面白いのは、最後のジャンケンまでの間の攻防です。防御側としては、攻撃側の子が途中で馬から落ちるように、馬を揺すったりして反撃できます。攻撃側としては、出来るだけ馬が途中で切れたり、つぶれたりするように仕掛けます。このどちらかが成功すると、ジャンケンを待たずに勝敗が決まってしまいます。いわゆるサドンデス(即死)なのです。

 このように書くと単純そうですが、一列の長い馬に、大勢の子が乗ること自体がかなり大変です。長い馬に多くの子が乗り終えるには、初めの方の子から順に遠くに乗らねばなりませんが、単に平均的に乗ったのでは、馬から落ちないかも知れませんが、馬をつぶすことは出来ません。反対に、一箇所に集中して乗れば、馬はつぶれ易くなりますが、乗り切れなくなった子が落ち易くもなるからです。

 それに加えて、防御側は馬を揺らして乗っている子を何とか振り落とそうとしますし、攻撃側の子は馬をつぶそうと、ものすごい勢いをつけて馬に飛び乗ったり、馬のつなぎ目に集中的に何人もが重なって乗り、馬を切ったりつぶしたりしようとするからです。

 この遊びは、文字通り遊びでもあり、勝敗を競うスポーツの要素もありましたが、はっきり言って集団の喧嘩のようでした。なにしろ徹底的に相手の弱点を攻撃して勝利を奪い取る遊びなんですから・・・。当時の遊びには、そういった体力と知力を使った、真剣勝負の遊びが沢山ありました。

 それでも、今思い出しても、それらの遊びは楽しい思い出としてしか私の記憶に残っていません。取っ組み合いの喧嘩をしたり、怪我をしたりしたこともしょっちゅうでしたが、皆が良い仲間でした。

 そうやって僕達子供はコミュニケーションを取り、仲間のルールを理解し、人間関係を深めて行ったと思っています。そういった本気のぶつかり合いがあったからこそ、僕達のコミュニティーには縦横の強い連帯が築かれていたと思うんです。なつかしいなぁ~~

                                          By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-11-25 11:09

(続)トポロジーって何?

 私はこうした発想法が大好きです。これまでも勝手な法則と名付けて色々な独り言を書いて来ましたが、その根底にはこういった「トポロジー的な物の見方」があると言っても良いでしょう。物事は現実的には様々な衣服を纏い、アクセサリーを付け、化粧を施し香水まで付けて外観を変えていることが多く、その為に本質が見え難くなっていることが多いものです。

 このため私たちの周りで起こる問題が複雑に思えたり、折角多くの経験を積んでいるのに、その経験が全く活かせなかったり、解決方法を間違えたりすることが多いのではないでしょうか。

 「一芸に秀でる者は多芸に通ずる。」と言う言葉がありますが、それが何であれ、ある道を極めた人は実際に人格も高潔で教養に溢れた人が多いと思います。そういう人はその道を極める過程で物事の本質が見えるようになるからだと私は思っています。

 そう言うとやたら難しいと思われる方もいらっしゃると思いますが、私はそれほど難しいこととは思っていません。例えは悪いのですが、様々なカードゲームや麻雀といった駆け引きを要する遊びから、野球のような団体スポーツや個人技を競うスポーツまで、それらから様々な人間関係に関する対応法や処世術が得られることもありますよね?

 遊びを遊びに終わらせず、スポーツを単なるスポーツに終わらせないことが大切ではないでしょうか?仕事や家事も同じですよね?毎日している一見詰まらないと思っている単純な仕事や家事も、それを表面的に捉えていては、そこからは何も得られません。却って不平と不満が見つかるだけかも知れません。チョッと視点を変えてみては如何でしょう!

 人生に無駄なものはありませんよね?何からでも多くのことが学べます。ただし、それには、枝葉末節に惑わされず、出来るだけ物事の本質を見ようとする日常的な努力が必要だとは思いますがね・・・。

                                           By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-11-21 10:59

トポロジーって何?

トポロジーってご存知ですか?トポロジーは現代の数学の中で非常に活発に研究されている分野の一つです。これは、数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞を最も多く取っている分野であることからも分かります。

 トポロジーでは、「伸ばしたり、縮めたり、曲げたり、歪めたりして重ねられるものは同じ物」と見なします。簡単に言えば、くり抜いたりしない限り、同じ形の粘土を変形して出来る形は同じ物というような考えなのです。

 ですからトポロジーでは、円や、三角形や、四角形は全て同じものと見なします。それどころか薄い板も、立体的な球や立方体も同じものと見なします。ドーナツとコーヒーカップは同じものと考えるのです。
 例えば、板状で円形の粘土を考えてください。これは簡単に三角にも四角にも変形出来ますし、丸めれば球になるし、それを変形すれば立方体にもなるでしょ?でもこの板状の円形粘土からは、真中を刳り抜かなければドーナツ型は出来ません。その代わり、コーヒーカップ型の粘土を変形すればドーナツ型にすることは出来ますよね。

 つまりトポロジーでは、数量的世界観(大きさ、形、重さ、材質、用途など)を超越し、物事の根源的な本質を見ようとするのです。トポロジーの発想を一言で表せば、物事の枝葉末節を取り去り、その本質を見極めるというものなのです。トポロジーという学問がもたらす様々な研究成果は、様々な先進科学に寄与していますが、専門的な話は難しいのでここでは割愛しましょう。

 しかし、こういった発想法は私たちの日常にも見られます。分かり易い例としては電車の路線図などがそうです。実際の地理的距離や位置関係に拘らず、路線毎の停車順駅名と乗り換え駅との関係が明確と成るように単純化し描かれています。この方が必要な情報が正確に素早く得られますよね。

                                          By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-11-20 10:51

(続々)畏敬って?

 それらが信仰の対象になった理由は色々考えられます。人心を乱す未知なる物には、死に直結する病気や怪我もあったでしょう。これを治癒したり痛みを和らげる施術をする祈祷師も、古代社会では未知なる物と対峙し解決してくれる重要な人として、尊敬の対象となったでしょう。しかし、世の中には祈祷師ですら解決できない未知なる物があまりにも多く人心を乱し続けた筈です。これに対応して、未知なる物が及ぼす災いや祟りを鎮める儀式が生まれ、これらの儀式を主として祈祷師たちが司るようになって行ったとしても何の不思議もありませんよね。
 
 科学の発展や学問の発達で、未知なる物は徐々に既知なるものへと変わり、信仰の対象となるものも時代と共に様々に変化してきました。今では真の意味で未知なる物と言えば、死だけと言っても良いでしょう。そういう意味からは、現代の宗教が取り扱うものが死後の世界だけと言うのも頷けます。
 言い方は悪いのですが、宗教に於いては、未知なる物は全て「神の仕業」「神様の思召し」「神様のお告げ」「神の祟り」と言った形で神様にお預けすれば、信者であれば如何なる説明も要さず「なるほど」と理解し「既知なるもの」へと変えることが出来るのですから、大衆の人心を安定化するには必要不可欠と言っても良いでしょう。

 以上が、私の宗教に関する偽らざる思いです。宗教が人間にとって有用であることは論を待ちません。だからこそ全ての民族に固有の神が生まれ宗教として民族の歴史と共に存続しつづけたに違いありません。死者を弔い、先祖を祭る気持ちは如何なる宗教の神をも選ばず、人類共通の価値観であり風習です。このことを特定の神にのみ結びつけたり、特定の神の優位性を主張することるのは全くもって意味が無いのではないでしょうか?少なくとも、初めに神(全宗教、民族を超えた精神的支柱としての)在りきであっても、宗教在りきでは無いと思っています。あははは・・独り言です。あくまでも・・

                                         By  純一郎
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by m_tanijyun | 2003-11-17 10:48

(続)畏敬って?

 人間が思考をもった生物として進化を遂げた結果として、思考を混乱させ不安定にさせる「未知なる物」を克服することは永遠の主題となったと思われます。「未知なる物への飽くなき挑戦」それが知識や経験を蓄積する学問というものを生み出し、科学を発達させてきた原動力であったと思います。そして、その事がさらに人類の思考能力を更に発達させるという好循環を繰り返し、加速度的進化を実現させたと言っても過言ではないでしょう。

 人間は肉体的(機能・体力のどれをとってもそうだと思います)にも精神的(これは思考能力があるが故のことです)にも他の生物に比べて、非常に脆い存在です。それにも拘らず、地球上で最も繁栄する生物に成り得たのは、人間が思考能力を持ち、その弱点を知識や学問、道具などで補完することが出来たからです。更に言えば、他の知的生物同様、社会を作り組織的に知識や経験を活用する能力を持っていたことも重要な要素と言っても良いでしょう。

 ですから人類の歴史は、常に身の周りの「未知なる物=恐怖」と対峙し、それらを克服する一方で、精神的安定を保つという両輪がバランス良く機能する必要があったのだと思います。(ここから先は全くの私見です。)

 歴史を振返って見ましょう。まだ科学も発達せず、人類の身の周りが未知なる物で溢れ返っていた時代の恐怖感は如何ばかりのものであったのでしょう?(幸いにしてというか不幸にしてというべきか、人類の思考能力も未分化だったので、現代人のようには恐怖感は感じなかったのかもしれませんがねw。)だからこの時代の未知なる物、天空の星、火、巨大な石、大自然の近寄り難い地形などなど、多くのものが恐怖の対象であり、畏敬の目で見るものであり、信仰の対象となったのではないでしょうか。

 このような未知なる物が信仰の対象となり、後に宗教として進化していった過程は容易に推定がつきます。未知なものは、それ自体理解し難い存在であり、人間の心を不安にしますが、それを解決する手段は沢山ありますが、大きく別ければ二通りでしょう。一つは、文字通りそのものを知ること(その事が科学を発達させる原動力となった)ですが、もう一つはどうしても分らない物を信仰の対象とすることだったのではないでしょうか?

                                          By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-11-16 10:46

畏敬って?

 畏敬という言葉をご存知でしょう?辞書には「おそれ、うやまうこと。」となっています。う~む・・・おそれ・・ね。なんか、うやまうってのは分るけど、おそれるってのはどういうことかな?威厳がある人と会ったり話したりするとき「おそれおおい」って使ったりするけど・・・・。

 「おそれ」の終止形は「おそれる」です。「おそれる」とはどんな意味を持っているのでしょう?これも辞書で引いて見ましょう。辞書には「おそれる=恐れる、怖れる、畏れる、懼れる」となっています。意味を調べると、こわがる。気遣う、危ぶむ、心配する、もったいないと思う、憚(はばか)る、です。

 畏敬という場合の畏れは、どうやら「もったいない」と言う気持のようです。それが敬う気持と一体化して尊敬すると言うような気持を表わしているのでしょう。

 しかし、辞書で引いても、この一見して全然意味の違う「恐れ」と「畏れ」が同じ語源の言葉として使われているのは何故でしょう?私は日本語以外は不得手ですが、どうやらこの恐怖を意味する「恐れ」と、尊敬を意味する「畏れ」を同じ語源にもつ言葉は、日本語に限った事ではないそうです。英語の「fear」にも、日本語と同じ恐怖の意味の他に、神に対する敬虔な思いと言う意味があるそうです。不思議ですね。

 じゃ、恐れの基本的な意味、いわゆる恐がる気持つまりは恐怖感って何なんでしょう?人はどういう物に恐怖感を覚えるのでしょう?矢張り、その代表的なものは死、暗闇、天変地異ではないでしょうか?ではそれは何故なのでしょう?それらに共通するキーワード、それは何でしょう?
 死、暗闇、天変地異について共通しているものは、「理解出来ないもの」「先行きの見通しが利かないこと」なのではないでしょうか。「分らない=理解出来ない」ことは人間の思考を空転させ、何処にも落ち着かせる事が出来ない為、心を不安定にします。このため、人間はいわゆるパニックを起こす事になります。それが恐怖の根源にあるのではないでしょうか?

                                           By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-11-15 10:44

(続)界面って何?

 洗剤は、繊維と汚れの境「界面」に作用して汚れを剥がし取り、水中に分散させ、再付着を防ぐなどの働きをする薬剤「活性剤」を何種類も配合したものです。ですから、洗剤そのものを科学用語として「界面活性剤」と呼ぶ事もありますし、複合洗剤の配合成分のことを「界面活性剤と呼んだりするのです。

 界面活性剤の性質や働きについてことを専門的に話し出すとこれまたキリがありません。ここではチョッと置いておきましょう。

 でも、こんなことも言われて見れば当たり前のような事ですが、何でも物は空気と触れているものだって言う先入観はありませんでしたか?そんなところにも表面みたいなものがあるってことは知ってても、それに界面なんて名前が付けてあったなんて考えて見た事は無いでしょ?(えっ?そんな事は無い?知ってました?知ってた方には退屈でしたね!ごめんなさい。)
 
このように私たちは、聞いた事がある、そう言われて見れば確かにそうだと思うことでも、そこにきちんと焦点を当てて考えた事が無かったりしますよね.。また、「まるで空気みたいな存在」なんて言葉があるくらい、空気がそこにあるのは当たり前で、何でもその事を前提に考えているので、改めてその事を指摘されると驚いてしまうなんてこともありますよね。

 でも、もう皆さんもお気づきのように、そんな雑学を知ってたからってどうと言う事はありませんよね。大切なのは、誰もが目にし、耳にしていることにも、案外と見過ごしがちな大切な視点があるってことじゃないでしょうか?発明や発見というのは、そういう視点に着目したものが殆どと言っても良いでしょう。 あははは、だからってこの話は皆で発明発見をして大儲けしようって話じゃありませんよ。発明発見には、こうした着眼点と同時に、それを商業化したり工業化したりする知識も必要ですからねw。

 ま、それほど気張らなくても、いわゆる生活の知恵、工夫といったものは誰にでも出来ますよね。仕事に於いてもそういう視点は大切ですよね?人の能力の差なんて、基本的にはそれほど大きなものではありませんからね。でも、私の知る限り、仕事が出来る人とそうで無い人の差ができるのは、実はそうした僅かな視点の差や、そこに着目して創意工夫をするかしないかの積み重ねの差であることが多いような気がします。

 日頃当たり前と思っていることを、偶には視点を変えてご覧になることも大切ではないでしょうか?意外と思いもよらない発見があるかも知れませんよ~w。
                                          By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-11-11 10:45

界面って何?

 「界面」って言葉聞いた事あります?えっ?聞いた事無い?・・じゃ「界面活性剤」は聞いた事あるでしょ?洗剤の事だろ・・って?うんうん。洗剤の裏の品名や成分表示のところにそんな言葉が書いてありますよね。あははは・・何で急にそんな言葉を持ち出すんだ・・って?

 どうせ純一郎が話題に持ち出すんだから、洗剤の話なんかする訳はないだろう・・って?あははは、お見通しでしたか?

 「界面」と言うのは科学用語です。私たちが日常で使っているこれと同じ意味の言葉は「表面」です。なあんだ!ですか?じゃ何で表面活性剤って言わないのか?・・ですよね。ま、活性剤と言う言葉も科学用語ですから、これも日常語に変えて欲しいところですよね?「表面の性質を変える薬」と言えばいいのでしょうか?チョッと格好悪い?あははは・・あっ!話題があらぬ方向に・・話しを戻しましょう。

 科学用語と違い、日常語は文字通り日常生活で使う言葉ですから、科学的にどうであれ、私たちが日常生活で体感する物事を説明できる言葉であれば良い訳です。
私たちは地球上に住んでいて、大気(空気)と言う気体に囲まれて生活しています。(当たり前のことをわざわざ面倒くさい言い回しをするな!それがお前の話題と関係あるのか?・・ですよね~~w)そうなんです。私たちが空気に囲まれて生活している事が私たちの日常の常識なんです。ですから、私たちが目にする物と、空気との境界面を日常語では「表面」と言っているのです。(何だそんな事か・・・ですか?あはは、すみません)

 しかし、科学では日常では目にしないことも含めて全て説明する必要があるので、空気以外の物と、物との境界面をわざわざ「界面」と言う言葉で言い表しているのです。
考えて見てください、空気と物(液体、固体)との境(表面)以外にも、液体と液体の境(ドレッシングのお酢と油の境)、固体と固体の境(アルミラミネートチューブのアルミ層とプラスティック層の境)、液体と固体の境(プールの水の底)など空気以外の物と物との境は一杯あるでしょ?そしてこの境の事は誰も表面とは言いませんよね?あははは、
 だから科学者は「界面」と言う言葉で呼んでるんです。(・・・・たったこれだけの事にこんなに書いちゃったw)

                                            By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-11-10 10:29

(続)立場って何?

これに対し、組織人間の代表とも言えるサラリーマンは、(ある意味では仕事の成果とも働く事の目標でもあると言える)自分の地位、役割といった組織人間としての「立場」というものに拘(こだわ)りを持ちながらも、それを自らの手で勝ち取れるとか、勝ち取ったという認識が持ち難く、自らの能力に相応しい「立場」が得られていないことへの原因や責任を、自らの責とは考えていないことが多いのではないでしょうか?そのためでしょうか、あるいは組織人間として働く事の必然性からなのでしょうか、サラリーマンの口からは、相手の立場や自分の立場に対する不満が非常に多く聞かれるってことになるのでしょう。

この両者の違いをもう一度考えて見ましょう。やはり大きな違いは、自らの「立場」に自らの意思で、自らの足で「立っている」という自覚が持てるか否か?なのではないでしょうか?

言葉に拘る訳じゃないですが、矢張り、真の立場とは、足場を固め、しっかりした足腰を鍛え、自らの意思で、自らの足で、大地を踏みしめてそこに立ってこそ、誰にも侵し難い真の「立場」が確立すると言うものではないでしょうか?
自分の立場について不満を感じる方は、自分の置かれている立場を良く見直してみては如何でしょう?今の立場は、元々誰かが確保した場所に、ある意味では自分の意思とは関係無く着かされた、或いは座らされた・・・というものではないでしょうか?あははは

場所まで用意され、その立場に立たせてもらい、その上自らの脚で立とうともせず、他人に寄り掛かって支えられてやっと立ってるようでは、守られるべきなんね立場なんてあろう筈も無いですよね?(ただし、その一方で、いま自分がそこに立っているのは、自分を支えてくれている多くの人々のお陰であると言う感謝の気持だけは決して忘れてはなりませんがね。)

主婦の座、主夫の座、父親母親の座なんかも同じことが言えるんでしょうねぇ・・・・だから立場が危ういのかも???おいおい!そう言う私の立場は大丈夫かいな?あははは

                                          By  純一郎
 
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by m_tanijyun | 2003-11-06 23:40

立場って何?

 今日はサラリーマンが拘(こだわ)る「立場」って言葉についての独り言です。これは本当の独り言ですよ!・・・あはは。いえいえ、今日の話だけが特別ってことはありません。私の話は何時も独り言なんです。ですから、さらっと聞き流してくださいね!

 サラリーマンの日常の会話の中に「あいつは自分の立場が分っていない」とか「そんなことされたら私の立場が無い」などといった様に「立場」という言葉に拘った会話が結構聴かれます。

 それじゃ皆が拘(こだわ)る、その「立場」って何なのでしょう?「立場」とは、本来は文字通り人が立たされている或いは立っている場所を指しているのですが、多くの場合その場所に立つことにより付随してくる地位、役割をも意味していますよね。

 サラリーマンは組織の中に居て、仕事に対する働き、成果により、その地位や役割を向上させて行く(これを一般にはどうやら出世というようです)訳ですから、立場はそのままその人の評価を表わしているとも言えますので、サラリーマンが自分の「立場」に拘(こだわ)るのは当然なのかもしれません。

 もちろん、これは別にサラリーマンに特有のことなんかじゃありません。しかし、ミュージシャン、プロ野球選手、医者、弁護士などなど、職能によって生計を立てている個人営業主のような生き方をする人にとっては、その人の「立場」というものは比較的明確に、その人の努力と能力に依存するものと思われています。言い換えれば、その立場に在ること自体がその人の努力と能力の結果であり、その責任を他人に転嫁し難いとも言えるのではないでしょうか?だから、彼らがその立場について如何なる不満を漏らそうと、同情する人は少ないと思います。

                                             By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-11-05 23:37