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(続)3以上は沢山?

 随分前のことですが、こんなことがありました。私には二人いる妹がいますが、その上の方が銀行マンと結婚して、それ以来ずっと海外で暮らしているんです。その当時、彼女はニューヨークに住んでいました。私はサラリーマンで、偶々出張でロサンゼルスに行きました。当時は海外通話が高く、平素は気軽に電話する状況ではありませんでしたが、米国内は一律安価な料金でしたので気軽に電話が出来ました。私はホテルに入ると直ぐ、妹に電話を入れました。 妹は、久しぶりの電話に驚くと同時に大いに喜んでくれました。しかし、その後直ぐに妹はこう言ったのです。「折角来たんだし、ついでだから我が家にも寄って頂戴!」ですって。えええええっ!ですよね?なんと言う非常識。如何に同じアメリカでもロスとニューヨークは北海道と沖縄の距離以上に離れてる筈ですからね。何しろカリフォルニア州に日本がすっぽり入っちゃうっていうほど、アメリカは、どでかい国なんですから・・・。そんなことは妹も百も承知のはずです。でも、彼女の意識の中では具体的な距離よりも、日本からアメリカに来た兄が自分と同じ国に居る、という意識の方が強かったから、そういう発想になったんだと思います。

 前者は、自分を中心に遠方にある地域を一塊のものとして捉えています。後者に場合は、妹の意識は祖国日本からはるばるやって来た私にあり、アメリカを一塊の場所として捉えていたことになります。これらは一見全く異なった事例のようでいて、意識の視点の置き方の違いだけで、実は本質的には同じ考え方によるものと思われます。

 細部に関し、しっかりと区別する意義や意味があるのであれば、北海道の中でも旭川とか札幌の地理的関係を意識します。しかしその一方で、漠然と一塊の地方として捉えれば充分な場合も多いのです。このような大まかな捉え方は、非常に荒っぽく、いい加減なようですが、実は非常に合理的な考え方で有るとも言えるのではないでしょうか?

 人間は非常に多くの情報や記憶を、脳の中の思考フィールドに引き出して来て、それらを比較検討して分析し、何らかの結論や決断に至るという考え方をしている訳ですから、必要かつ少ない情報で思考するほど素早く結論を得ることが出来る筈です。最初は、一まとめに出来る情報は極力一まとめにし、必要に応じて細部に視点を移し、比較検討すべき情報を、常に必要かつ最小限に止める。このような情報整理のやり方は、意思決定の常套手段であり、この「3以上は沢山」という発想法が生きていると私は考えています。

 意識をすべき物事に焦点を当て思考し、それ以外は存在だけは認識するが詳細は無視する。人間の思考のこうしたメカニズムを学術的に何と呼ぶのかは知りませんが、それがあってこそ、情報が整理され思考速度が速まり、決断力が高まるのだと思います。五感と呼ばれる感覚器官から入ったあらゆる刺激が、それを意識するか否かで整理され、必要な情報以外を無視するメカニズムも、これと良く似ていますよね?

 このような脳の持つ意識識別のメカニズムは、迷いを持つメカニズムと同様に、人間であるが故に持ち得る優れた特徴だと、私は思うのですが皆さんはどう思われますでしょう?ん?こじ付けですか?あははは。そう言われてしまえば、そうかも知れません。でも私は、多くの情報を整理し瞬時の決断を要する仕事に於いて、重箱の隅をつつくような情報に惑わされない為、あえて意識してこのような考えを導入するようにしています。w
                 

                                           By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-12-26 22:07

3以上は沢山?

未開の地に住む種族の中には、3以上の数字は存在せず、それ以上は皆「沢山」と言う言葉で済ませてしまっている種族が居ると言う話を聞いたことがあります。あははは。これって本当でしょうか?まぁ、ことの真偽は別として、このような逸話は、主として彼らの文明の発達の遅れを示す話として語られ、決していい意味ではないのではないかと思います。しかし私は、チョッと違った視点からこれを考察してみたいと思います。

 確かに、数字や数値と言う概念の存在は、数学と言う学問の発達の証ですから、3以上の数の概念を持たない彼らには、数学などという学問は無いのでしょうし、およそ学問と呼ばれるようなものは無いに等しいのかも知れません。しかし、見方によっては、彼らの方が肉体的なサバイバル能力は勿論のこと、いわゆる「生活の知恵」と呼ばれる「生きた知識」に関しても、我々よりも数段優れているとも言えますので決して侮れません。
 逆に言えば、我々文明人は道具の発達の恩恵に頼り過ぎていて、自らの基本的能力を退化させつつあるとさえ思うのです。その話は以前にも致しました。更に言えば、文明の発達により得られた道具を駆使するあまり、道具により得られる能力を、自らの獲得能力と誤解している節さえ感じてしまいます。嘆かわしいことです。これについて話し始めると限がありませんので、別の機会に譲ることにしましょう。

 閑話休題:最初にお話しました「3以上は沢山」と言うことに話を戻しましょう。彼らがそういう考えをしていて支障無く生活しているのは、彼らが単に無知であると言うよりも、むしろ実生活で3以上の数字が持つ重要性や必要性が無いからではないでしょうか?その意味からすればとても合理的な考えであり、文明社会に住む我々も、よくよく考えてみると、現実的には彼らと大して変わらない思考方法をしていることが案外と多いとも言えるのです。

 北海道に住む人にとっては、九州は南の方の島で、いわば一塊(かたまり)の場所ですし、反対に九州の人にとっては、北海道は酪農が盛んで、魚介類が豊富な北の外れの島と捉えている人が多いのではないでしょうか?大変申し訳ないのですが、地理に関心の薄い私にとっては、東北も北陸も関西も、山陰山陽も四国も九州も、それぞれ一塊の括りで捉えていて、あまり詳細には識別できてはいません。困ったものです。とほほほ。でも、必要なら調べれば済みますので、多少不明確でも実生活に支障があることは滅多にありません。これって、「3以上は沢山」と言う捉え方に似ていませんか?あははは

                                           By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-12-25 21:59

(続)言葉の呪縛?

 学問の世界や法律の世界では、特定の専門用語や法律用語にきちんとした定義を設けています。これによって学問であれば議論や研究を進め易くしていますし、法律の世界では秩序を保つ基準としています。しかしこの世界では、その言葉の用法にしっかりとした客観性を持たせることが大前提ですし、その是非には多くの議論を費やしているのです。新語、流行語の持つ利点や言葉の持つ呪縛力を、正しい方向に生かす為には、如何に個人の主観を排して客観性を持たせられるか、と言うことが大切なのではないでしょうか?

 「いじめ」や「体罰」と一言で言って、誰かが誰かに触れただけでも、これらの言葉を持ち出し、直ぐに批判の対象にするという風潮は、絶対に避けなければなりません。このようなことを放置すれば、批判を恐れるあまり、人々の行動や考えに「事無かれ主義」を生み、更には社会全体のモラルが低下するという悪循環を生み出してしまいます。
 
 「援助交際」なんていう言葉が流行り、本来なら犯罪行為と変わらない行為が、まるでそれが若者のライフスタイルの如くに面白おかしく取り上げられる風潮も許しがたいですし、「公園デビュー」や「お受験」なんて言葉も不愉快極まりない言葉ですよね?そんな言葉に特別の意義などあろう筈もありません。皆さんそうは思いませんか?

 「言葉による呪縛」の問題の怖いところは、それを意図して新語が生み出され、知らず知らずに情報操作され、人々が洗脳さてしまう危険性まであると言う問題です。

 しかし良く良く考えて見ると、私達の身の回りにはこれらと同じような言葉の呪縛が沢山あって、気付かぬうちにその呪縛に捉えられているってことが現代社会には満ち満ちていますよね。これは決して人ごとでも、笑い事でも無いかも知れませんね?気をつけましょう。

                                            By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-12-21 11:39

言葉の呪縛?

 お久しぶりです。気まぐれな独り言ですから、チョッと仕事に追われると直ぐ中断してしまいます・・あははは。

 今日は言葉の呪縛というお話です。これは日本人に特有のことなのでしょうか?それはともかく、これが適当な言葉かどうかは分かりませんが、私は言葉が持っている呪縛のようなものを時々強く感じることがあります。

 言葉の呪縛の最たる物はマスコミが生み出す新語、流行語ではないでしょうか?「いじめ」「体罰」「家庭内暴力」「校内暴力」「セクハラ」果ては「援助交際」や「公園デビュー」などなど。数え上げたら限がありませんが、こんな言葉がまるでお題目のように新聞の活字に踊ると、それらの言葉がまるで法的用語か学術用語のように特定の定義を持った言葉となって人々の心を縛り付けるのです。

 言葉の呪縛に捕らえられた人は、「いじめ」「体罰」と聞いただけで、それはまるで「悪魔の行為」のようにさえ聞こえるのではないしょうか?だから、これに反論したり情状酌量を求めたりしようものなら、「お前は悪魔の手先か?」・・とは言われないものの、「お前は間違った考えの持ち主である。」と白い目で見られることは間違いないでしょう。

 勿論、「いじめ」や「体罰」が良いことであろう筈はありません。当然のことながら、そんなことの良し悪しをここで論議しているのではありません。人々の生活や営みの中に様々な行為があり、その行為そのものに、人として「許されない行為」があるのは確かです。しかしだからと言って、特定の新語を生み出し、その言葉に、まるで犯罪用語と同意語のような概念を植え付けて良いのでしょうか?そして、その言葉に当て嵌めて判断することが国民全体の合意であり、他人の行為を個人の主観だけで決め付けるという風潮を放置しておいて良いのでしょうか?
 
 
                                            By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-12-20 11:36

(続)常識って何?

 確かに、日常的には数世代前のように自然の脅威に晒される機会が少なくなり、自ら冒険を買って出ない限り日常的にも生命を脅かされるようなことは滅多にありません。女性が男性の庇護無くして生きられなかった時代は過去のものとなり、何時の間にか子供でさえ、必ずしも親の庇護なしでも生き延びられる時代となってしまいました。一説には近年、男性が男性である必然性が失われつつあると言う指摘すらあります。確かに、父親が家庭の柱として外敵や自然の脅威から家族を守り、生計を支える主たる収入源と言う構図は失われつつあります。今では単に雄として生殖の一翼を担うだけの役割しか残されていないと極論するものまで現れています。女優の多くが、子供をもうけた途端に離婚してしまうのは、このことも決して無関係ではないのではないでしょうか。この話は別の機会に譲るとして、それほどまでに社会の構造そのものが過去とはあまりにも違って来ています。

 しかし、だからこそ今、健全な社会生活を営む規範となる常識が必要なのではないでしょうか?本来、そのままでは僅かな気候の変化にも充分な対応も出来ず、大自然の脅威の前に全くの無力で、裸の猿とまで形容される人間です。知能が発達していなければ、真っ先に自然淘汰されていたかもしれません。そんな無力でひ弱な存在であった人間は、寄り添い社会を築いて暮らすことでしか生きる術が無かったと思います。文明の発達した今日でも、その本質は何も変わってはいません。むしろサバイバル能力は退化していると言っても良いでしょう。それにも拘らず、現代の人間は、社会の繁栄と共に社会生活を営むことへの感謝の気持や大切さを、忘れてしまっているのではないでしょうか?これでは個人の主観や主張を中心とした利己主義が横行し、社会常識を踏みにじる行為がまかり通っても不思議は無いと言えるのかも知れません。

 今一度、常識とは何か?常識を持つことの大切さを考え直したいものです。勿論これは、常識に縛られ、悪い社会的因習や生活習慣を受け入れることでは絶対にありませんし、思想の統一化や個性の喪失を助長するようなものであってはなりません。あまりにも利己的となった常識を見るにつけ、社会の規範となる考えや知識・意見を共有すること即ち常識を持つことは、健全な社会や暮らし易い社会実現の必要最低条件である筈だと強く思う今日この頃です。
                            
                                             By純一郎
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by m_tanijyun | 2003-12-06 11:34

常識って何?

「そんなこと当たり前だろ!常識だよ」とか「普通そうでしょ?それが常識だよね?」とか日常的に良く言います。

 常識を辞書で引いて見ますと「普通一般の人が共通して持っていなければならないと考えられる知識・意見または理解力・判断力」となっています。

 それにも拘らず、その一方で「えっ!知らなかったぁ~。驚いたぁ~」「何?知らなかったの?そんなの常識でしょ?」と言った会話も日常的に繰り返される会話です。

 このように、普通一般の人が持っている共通の知識や意見と思われている常識が、人によってこれほど違うものかと言う思いは、誰もが経験し実感しているのではないでしょうか?

 常識と言っても、人間の持つ考えですから、確かに国や民族が違えば常識も違うのは当然かもしれません。同じ民族でも住んでいる地域やその地域の風習などによっても微妙な違いがあるかもしれません。更には、年齢によって、男女によって、ライフスタイルによって等と細分化して考えると、基本的には個々人により考えは違ってしまいます。そうなると極論を言えば常識なんてあり得ないと言う話になってしまいます。

 しかしながら、人間が社会生活を営む動物である以上、その社会にとっての常識、即ち大多数の人が共有できる価値観は出来る限り多く持てた方が良いと私は考えています。常識とは、その社会を構成する人々にとって、謂わば人が人であることの最低必要条件みたいなものです。その社会に於けるルール、システム、或いは生活そのものが、その社会に於ける常識を基盤に成立していることが多いからです。

 現代は、地域や国家の垣根さえ殆ど意味を為さないほどグローバル化が進み、様々な価値観を持つ人々が共存し、掛け離れた地域に住む人さえ無関係では済まされない環境になりつつあります。その一方で、個々の人々は、必ずしも家族や地域、国家と言った社会の庇護を受けなくても生活し得る、安全で快適な環境も獲得しつつあります。このような環境が共有の価値観を持ち難くしている事が、常識の多様化の一因なのかもしれません。

                                            By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-12-05 11:37

(続)動的平衡って?

 ですから、「行く川の流れ」の水のように、そこに流れ込む水量と流れ去る水の量が同じであれば、あたかもそこには何も変化が無かったように見えることを言っているのです。更に複雑なものとしては、様々なアップダウンのある道を、アクセルとブレーキを上手に使って自動車を一定のスピードで走らせることなども当て嵌まります。

 動的平衡を保つ機能としては、アクセルやブレーキの他に、スピードが落ちたことや上がり過ぎたことを感知し、アクセルを働かせるべきかブレーキを働かせるべきかを知らせる機能も必要です。その原始的なものは単なる条件反射みたいなものなのですが、もっと高度になると、フィードバック・コントロールと呼ばれる情報の伝達機能を持つようになります。そしてこれらが複合的に働いて、生物の身体の中で動的平衡が保たれているのです。

 そう考えて見ると、生物の持っている機能の素晴らしさが良く分るのではないかと思います。これこそ自動制御装置そのものではありませんか。産業革命やIT革命などが発達して、今でこそあらゆる産業の生産現場で、或いは私たちの身の周りの様々な道具や装置、家電製品などに自動制御装置が働いていますが、生物の体内では、それこそ原始の生物が生まれたその時から、そんな機能は持っていたのです。

 生物が生物であるがために持っている特徴や機能が、人間社会の発明品のモデルになっている事例は、何もこの動的平衡機能だけに限ったことではありません。コンピューターの基本となった思考回路や機能、システム構成なども、生物の頭脳をモデルにしていることは明らかですし、人間が営む社会や会社の構造や機能もまた、生物の身体の構造や機能がとてもよく当て嵌まります。生物自体が本質的に持っている機能こそが、何物にも変え難い優れた機能であり、人類発展の為のあらゆる手本であり、教材であると言っても良いのではないでしょうか?

 動植物を初めとしたあらゆる生き物をそのような目から良く観察して見てください。デザイン、色彩、形状、機能の如何なるものも、生き物ほど優れた見本は無い事が直ぐに分るのではないでしょうか?また、社会やシステム機器類など、およそ機能を持っているものに障害やトラブルへの対処法も、植物や動物の抱える病気への対処法も、更には人間の医療に於ける診察・治療のシステムが原則的には殆どそのまま応用可能なことも頷けると思うのですが、如何でしょう?

                                           By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-12-02 11:29

動的平衡って?

 「行く河の流れは絶えずして、しかも元の水にはあらず。淀みに浮かぶ泡沫はかつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」とは方丈記:鴨長明 の一節です。岸辺から川面を眺めると、水の流れは絶え間なく、見た目には、いつもと変わらない姿をしています。しかし、そこに流れている水は、一瞬たりとも同じ水であろう筈はありません。これらは平家物語の導入の一節同様、万物は生滅変転するという無常観、諸行無常を説く言葉だと思います。

 もちろん私はここで諸行無常を説くつもりなどありません。今回は、実際にはそこに変化があるのだけれど、表面的には殆ど変わらないように見える現象についてお話しようと思っています。私たちの容姿なども、日々の表面的変化は殆ど無いに等しいものです。しかし、これらも初めにお話した「行く河の流れ」の如く、実は決して日々同じではあり得ません。

 老化のように、年数を経過して現れる変化は別にして、生き物の身体には、内面的には生命活動を維持する為の活発な化学変化を伴ないながら、外面的にはその状態を常に一定に保とうとする機能が備わっています。このように生体に 於いて物質やエネルギーの出入り、合成と分解など、相反する方向に働く変化が釣り合って、短時間を取って見れば形態も成分も一定の状態を保っていることを動的平衡(dynamic equilibrium)と言います。そしてこれは生命現象の著しい特性とされています。

 生物の定義としては、その身体がタンパク質で出来ていたり、細胞構造を持っていたり、自己増殖機能を備えていたり、物質の代謝機能を持っていることなどとなっています。それに加えて生物は、無生物には見られない自力運動能力や重力に逆らった方向への運動なども見られますし、今回のテーマである「形態を一定に保つ動的平衡機能」をも持っているのです。

 動的平衡状態というと、やたら固くて難しそうな言葉ですが、言い換えますと、動的=常に変化している状態であって、平衡=バランスが取れていることを言っているのです。

                                           By 純一郎
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by m_tanijyun | 2003-12-01 11:24